2拠点で活動することになったきっかけ
2020.9.28

2拠点で活動することになったきっかけ

私は東京と岡山の2つの場所で仕事を行なっています。

 

片方の場所に定期的に出張しているというよりも、両方の場所に家と仕事場を持ち、行き来して生活をしています。いわゆる2拠点生活というやつです。最近では妻も東京岡山両方で仕事を得て行き来しています。

 

この数年間で2拠点生活という言葉をよく耳にするようになりましたよね。平日は都心で仕事をし、週末は片道数時間離れた地方で生活し、また平日になって仕事をしに都心に帰る。たとえば千葉の房総で週末はサーフィンをして、、みたいな話です。趣味や気分転換のためや将来の都会暮らしへの漠然とした不安のために2拠点生活を実践するといった話です。

 

私は趣味や気分転換が目的ではなく、おおげさかもしれませんが自分自身のとある「危機感」があって、いつのまにか2拠点、しかも東京~岡山というそこそこ距離の離れたの生活をすることになりました。

 

「なんでこんな離れた場所を行ったり来たりしてるの?」「往復だけでも結構かかるでしょ?」とよく聞かれるので、この場を借りて書いてみようと思います!

 

◆◆◆

 

いきなりさみしい話ですが、2012年くらいの時ですが地元笠岡にいる母が病気で余命が限られていることが分かりました。その時、

「母がいなくなったら実家(といってもアパートですが)はなくなるし、もう自分は残りの人生で笠岡の地に足を踏むことはなくなるだろうな。。」と直感的に思いました。(母子家庭でしたので)

 

笠岡に行かなくなるということは、自分が20才まで過ごしてきた大事な思い出や友人知人、土地勘や方言。これらが根こそぎ自分の中からなくなってしまうんじゃないか。地元に家族の誰かがいたらこんなことないと思うのですが、いないと少しずつ、うっすらと気づかず自分の中から消えていく。こんな不安というか危機感を感じました。

 

友人と遊ぶためにわざわざ笠岡に行くということは考えられませんでしたし、行くとしても冠婚葬祭程度。SNSでつながっているとはいえ思い出の延長みたいなもので五感を通じてその土地とつながっている感覚はほとんどなくなる。かといって、仕事をしていた東京を捨てていきなりUターンをするなんて考えれなかった。なんだかんだ、東京を離れたくない、関わり続けたいという気持ちもあったのです。

 

 

さて当時入院していた母の見舞いには月に数回東京から夜行バスで通ってました。その時に「何でもいいから岡山で仕事もらえたら見舞いのついでに仕事ができて交通費が浮くな~笑」、なんて軽く思っていたところ、なんとSNSを通じてグラフィックの仕事が入ったのです。

笠岡の未来をつくる新しいしごと

ちなみにいただいたのはこちら

タイラーデザインとして活動し始めた時で、当時かけだしで仕事が少なかったこともあいまって、かなり嬉しかった記憶があります。

そしてそのご縁でいくつか仕事をいただき、見舞いのためにではなく、「仕事のために」岡山に帰っては仕事の打ち合わせやイベントに参加するという生活になっていました。

 

そんな生活の中、とうとう母が他界。

それからすぐに岡山での仕事が減ったり、電話やWEBでのやりとりで済むような状況にもなって半年ほど笠岡に行かない時期が続きました。

 

そこで思い出したのが、例の危機感でした。

「あ、このままだと笠岡には帰らないな。仕事ないと帰らないな。そして故郷と関わりのない残りの人生になるな」と。

このあたりで、地元とつながり続けるには「仕事」がなによりも重要であることを実感しました。仕事がないと絶対帰らないし関わっていかない。友達はかけがえのないものだけどそれじゃあわざわざ地元に帰ることはない。地元で仕事をつくるってことは自分の人生にとってとても大事なんだなってこの時気づきました。

 

そこで自分の人生に故郷・地元をつなぎとめていくには、自分から関わり続けないといけないと思い、何ができるかも何が起きるかもわからないけども、とにかく何もなくても月に1度は岡山に数日間帰ろう。そこに自分がいるということを印象つけよう。直接的な営業はしなくても、ただ居よう、寝泊まりしよう。そうしたら何か仕事につながるかもしれない。

そのことを知人に打ち明けると、心ある方からある事務所の一室を借りてみるか?ベッドもあるからそこで寝泊まりできるよとお誘いがきたのです(ほんとありがとうございました!)

そんなこんなで月に4,5日笠岡に滞在するという生活を始めたのが2014年の秋ごろで、これが2拠点の始まりでした。

間借り場所は物置のような、、いや感謝!

 

仕事の関係者、仕事からほぼ友人みたいになっている方。たまに遊ぶ友人。

いろんな方が協力してくれていますが、妻という大きな理解者がいたからこそ、こんな生活・仕事ができています。

いわゆる「田舎暮らし」というものに否定でないことと、私と同じく、東京と完全に離れた生活は求めていないことが、同じ価値観でここまで来れているんだと思います。

彼女も今では岡山での仕事を個人的に得ているので、より岡山での生活がリアルになってきています。

 

こういった流れの中で、2拠点生活を行なっています。いずれは笠岡がベース・東京がたまに、という東京とゆるくつながった生活を目指しています。その途中段階が今なのかなと思っています。今後、家族が増えたとき。学校について。ちょっとこれどうするの!?ってことがいろいろあると思いますがひとつひとつこなしていきたいと思います。

 

 

今回は2拠点になっている「きっかけ」の説明ですが、笠岡がベースで東京にゆるくつながった生活の良さについてまた書けたらと思います。2箇所で生活基盤を持つことが、大変であること以上にどう魅力的であるのかを、実際に実践している立場で紹介したいです。それでは、家族のこと、家(建物)のことを、ひとつひとつこなしていき、着実に進んでいきたいと思います!